昭和41年03月17日 朝の御理解



 昨夜、休ませて頂く前に、ご祈念をさせて頂いて、私の御本部行きも、だんだん近づいて参りましたし、この月末には、そのために試験のみがございます。試験にも臨まなければなりません。ですから、少し勉強でもさせて頂いておかなければならない。どういう勉強させて頂いとったら、いいだろうかと思うて、神前にお伺いをさせて頂いたら、ゆがき卵よりも生卵の方がよいと神様が仰った。
 あただ、その勉強やらしてですね。用意しておくよりも、そん時にも生でいけと、地でいけと、そう言う様な事を頂いた。そうですね。問題は、私を試して下さるのですから、それをまぁ学力だって、学力と言った所で、まぁ普通のあれは、国語と作文ぐらい。あとは、皆んな教学面のことであり、教導面のことばかりなんですから、もう私の今更、勉強でもないと思うのですけれど、確かにこの生ものでないと、実感というか、神様でもそうですけれど。
 やはりゆがき卵よりも生卵がよいという、それだけで、何か皆さん感じられる事はないでしょうか。ただここで思わせて頂く事はですね。こうやってここで皆さん何十人の方達が、朝晩のご祈念にお参りなさって、ご祈念なさっておられる。どの顔見ても大した変わりはない。まぁ一寸器量のええ悪い位はあろうけれど、結局その顔の真ん中に鼻がある、ちゅうごとあるちゅう風にですね。目も二つあるちゅう風に、別にどこち、その猿のごとある風な人はあんなさらんですから、大体同じようなものですね。
 いうならまぁ、この鶏の卵とあひるの卵、まぁ素人では見分けのつかんぐらいにある。例えば雀の卵と鴬の卵と、なかなか見分けが付かん様なもんです。ひばりの卵でもええでしょう。けれどもです、それがいよいよ還られてみなければ分らんです。かえ割れてみても、ひよこのピヨピヨの時にゃまだわからん。けれども、段々それが長ずるにしたがって、ハァーこれがあひるばいな。鶏ばいなということが分る様になるですね。
 私共これこそまぁいうなら、金光様の先生の卵が沢山でけるわけですよね。今度新学期になりますと。その卵の中にです、どれほどかい割れる人がおられるかちいうことです。まぁ度々百名くらいの受験生又、学院生がでけるわけですけれども、百名の中に何人本当の金光様の先生がでけるか。何人生まれるか。本部としてもですね。沢山の金を、とにかくあなた月謝もいらないし、費用も一切本部持ちですからね。食べることから何から一切、ただ着ること自分の日用品、自分の身の回りだけ位の事だけなんです。
 もう本部としても、それはもう馬鹿らしい話です。金光様の先生になるやら、ならんやら、本当の信心を頂くやら分らん様な人達をです。まあ百人も賄うていって、その中から何人金光様の先生がでけるか。そういう意味合いならです。私共は学院に行かんでもです。こうやってお取り次がでけておるのですから、大体言うたらですね。試験というたら試験というだけでも、一寸こう色々考えられるのですけども、やはりそういう一つの教団のシステムというのがあるのですから、それに従わなければなりません。
 というてもほんなら、本部の方では、こう言う風なのが満点だ。こういうなのがいいのだと言う風に言って居るかも知れんけども、私はひょっとすると、それと反対のごとなることを言うたりして、私の方が合うとるかも分らん。例えば一つのお取り次と言う事をどう言う風に感じるか。本部ではその答えが出ておる。お取り次ちゃこういうもんだということ。けどそれは人間が決めたちやですから。
 本当のことをお取り次とはこんなものだと、神様から頂いたもんが、ほんなこっちや。問題は人が助からなければ、お取り次もなんもあったもんじやない。教祖の神様が仰った。もうこの方は、もう人が助かることさえ出来れば、それでよいと仰った。私共の方も、つうとつるより他に何もないですから。教師としての教養を持たなくても、学力を持たなくても、人が助かっていけばそれでよい。
 ためにいよいよ私自身がです。助けなければならん立場の者が、助かっておらんと言った様な事ではいけませんから、私がいよいよ私自身が助かることに、精進する以外にやない。ここにその、卵の話なんです。かい割れてみなきゃあ分らん。あひるが生まれるやら、鶏が生まれるやら、いやひょっとしたら、いくら親鳥がぬくめておっても、かい割れんとがおるかもしれん。中身が腐っとる。
 もう金光様の信心ばかりはですね。もう本当に、ここ以外はないです。もうずうからいく以外にやないです。修行でも、そしていよいよ自分の真を極めていく以外にないです。もうコツも道もあったもんじやありません。御理解を頂いて、自分が選ぶよかち思うちよったのが、自分がです、こんなにも、いわばいうならば、腐り果てているような心に気付かせて頂いてです。それが新たな生き生きとした心に甦って来る以外にないです。浅ましい心で、よいおかげが生まれてくるはずがなか。
 心が汚く濁っておって、よいものが生まれる筈がなか。卵なら卵を例えば鶏が、親鳥がこう卵を温めるでしょう。中に一つ腐った卵が入っておったら、見かけは分らんとじやから。卵全部捨てます。私共おっても、これほど働いたことに関してから、たいたるごとしておるごとしておるばってんが、生まれた時はパチッと、こう親神様が抱いて下されば、われてきてるって今日まで。だから見かけじゃわからん。
 これは皆さんが、これは昨夜その事について私、お願いさせて頂いたり、お伺いさせて頂いたりしてから、そう言う様な事を頂いてから、私は感じるんですけども、これは金光様の先生になるための試験とか、学院に入学とかの、いうだけのことではありません。お互いが日常生活の上にです、これから新たなおかげを生みだしていくと言う事に、おいてもです。本当のお道の信奉者としての、あり方にならして頂くでもです。
 あれは金光様の信心を頂いているけれども、どうもキリスト的だと。あるいは仏教的だと。いいやないですか。おかげを頂いていきやあ。昨日の総会の時に、今度の本館と東脇殿の入り口のドアになりますよ。壁の、壁のじゃない。そのドアの緑の色のことでいろいろ喧嘩しているんです。私は朱にするちや。赤にする。ほんなことお稲荷さんのごとある感じ。それじゃなかったちや。
 そのとやこう皆んな言いよるとに、赤くなんてしなさるなら、よういかんですばいと、ほんなら他に宗教的な色がなんかあるかと、私が言う。白木にするなら、白木でもよかろうばって白木でもどうか。茶色か、白か。どの色をもってきても宗教的な色ちいうのはないです。もう宗教的な色彩というなら、もう朱以外にない。秋永先生が、どげん考えたですばいちや朱が一番よかです。それはもういかんちいいよったばってん、結局は朱が一番よかろうごとあるちや。
 だから今の教団の人達が椛目にきてから、びっくりするでしょうね。もうびっくりされ続けたことじやけん、びっくりされたちゃええやないか。そりゃお稲荷さんのごとあるですばいち言うかもしれん。言うたちゃええやないか。それはそのことは、どういう色になるか、まだ決定しておるわけではございませんけれどもです。見かけは稲荷さんのごとしといちやいいじゃないか。
 もう私は、今までの一つの約束と言った様な教会は、ごけんなからないかんと言った様な、一つの形式と型というものを、どちらかというたら破っていきたい。どんどん破っていきたい。そして現在、金光的なものというのが、実際できていないんですよ。それはそうですよ。まだ立教百何年位な新しい宗教ですから、それはなかなかやはり、キリスト教とか、仏教なんか、何千年という伝統をもった宗教なんかは、本当に宗教的な素晴らしい一つのセンスを持っておりますよね。
 会堂一つでも。趣ありますよ。ですから、そげななかからでも、本当に良いものがあれば持ってくる。殆ど金光教なんか、神道から来ておりますからね。神道、例えば御三宝とか、八足とか、柏手を打つとか言った様な事すらが、もう一つの古神道から来ておるんですよね。日本古来の神道の形式をとっている。そこから新しい金光教的なものを、これから作っていかなければならんというのですから。
 この頃、鹿児島の教会が落成しております。御結界は腰掛けるだそうです。ここにいるだけが座っておらんと、気分のでらん人が多いけんで座ってから、後の方はずうと映画館のごとある腰掛けにしてあるという話です。今だからどげんせんならんちゅうことがないから、私は椛目は椛目の行き方でいったらいいと、私は言っているんですけども、問題は外観じゃない。中身じゃ。入ってから助からなければなあにもならん。
 椛目は結局と。それで私は学院に行ったら、本当に私はもう、本当に私は一学院生としてのおかげを頂きたい。はや椛目ではもう本当に親先生と神様の様に扱うて下さる。この私が一学院生として私はおかげ頂いていきたいと思うたら、その事もです。夕べ頂いたら、コンパスを頂くんですもんね。こうやって廻すとがあるでしょう。コンパスの芯というのは、もう突けば針の先の様なもんである。本当にもう馬鹿んごつもなりゃ、どげな利口もんのごつもなりゃ、人が神様のごついうなら神様のごつもならして頂こう。
 もう自由無碍。自由自在にありたいと、私は思うとります。学院の先生方はまだ二十幾つの若い先生が沢山おられるです。その先生方に、私共はついてから勉強させて貰うのですから、もう本当に先生として頂きます。ところがほんなら飯塚の大久保先生とか、熊本のあのなんとか先生でしたね。小国の高倉先生なんかは、その学院の先生方に教える先生なんです。今日おい出られた。その先生方と、私はお話をする時にや、ひよっとすると私が対等以上に私がでるかもしれません。
 それは学院長だって同じ事です。教監だって同じ事です。私に認めて下さって、私をいわば認めて下さるならばです。私はそん時もう、いつまでも学院生だけではない。椛目の皆さんが言うて下さる親先生になりたいと、私は思うとります。そういうことじゃないかと思うたんです。コンパスを頂いたのは。一寸広げたら、どんな大きな円形でも書くことが、でけるでしょうが。だから私の考え方が間違っていないんだなあと、昨日そんなふうに一つの確信を持ったんです。
 何時も卑下する事はいらん。というて高ぶる事もいらん。もう相手次第だ。学生達に見られる時には学生にならして頂こう。親先生と言うてから、言うて下さったら親先生になろう。神様の用に使って下さったら、一つ本当に神様のようにならして頂こうと。そんな気持ちでならして頂く。だとこう自分で思うとります。ためにその勉強をしなければならんだろうかとこう思ったけれど。この頃の小倉行きの場合だって同じ事。やっぱ生でいってきた。用意というものがあって準備がない。出たとこ勝負である。
 ただ、問題は、いくら出たとこ勝負でも、中が腐っておったら、腐ったものを出してはずかしか。だから結局中身はなければならない。生き生きしたものが。かい割れてみて始めて分る。こればっかりはどうして、かい割れんだろうか。中身が腐っておったと言われる様な事があってはなりませんから。そう言う様な事の中から、皆さん信心とは本当にここんところを思うてみて頂きたい。これは私だけの事ではない。信心とは問題は中身なんだ。中身を改める以外にないのだ。
 これでいいなんてあぐらをかいておったら、おかげは頂かれん。限りなくこれでは、これじやいかんのだ。いよいよ美しいものに清らかなものに、わが心を神に向うていくことを楽しみにです。信心させて頂く人であって、始めて信心をしておれば、一年一年有難うなってくるとこう仰る。一年一年有難うなっていくところの信心。そういう信心をお互い目指さないけません。
 見かけはわからん。何十人並んでいなさるけど、どれが本物やら分らんのだけれど、総代じゃから、必ずほんなもんじやち言う事はなか。ほんに始めち、今日参ったという人が、ほんなら、まぁだこの人はつまらんという事もない。中にどういう素晴らしいものを持っておるやらわからん。親鳥に抱えられてみて、抱かれてみて、そうしてやはり生み出されていって、どういう鳥であるかということもわかるし。同時に又中身が腐っておっては、それこそ何十日抱えられておっても割れもしません。
 お互いがです。おかげが受けられん、受けられんということばかりをです、思うておるのではなくて、これは腐っておるから、割れんのじゃなかろうかと言った様な所に、ひとつ思いが至っていかなければなりません。どうぞ夕べから神様から頂きました、いわばことどもですけれども、その中から信心とは、成程そういうもんだなあと、言った様な事を、今日の私の話の中から感じとって頂きたいと思います。
  どうぞ。